7世紀から8世紀にかけて、中国では唐の帝国が広大な領域をほこり、西アジアなどとの交流によって国際色豊かな文化を発展させていた。
東アジアの諸国はそれぞれ唐と通交し、その結果、東アジアの広い地域が、唐を中心とする共通の文化圏を形成するようになった。
朝廷は8世紀にはいると、20年に1度の回数で、大規模な遣唐使を派遣した。
遣唐使の渡航は、航海や造船の技術が未熟なうえ、大海を横断する航路をとったこともあって、きわめて危険であった。
しかし、吉備真備やゲンポウら遣唐使にしたがった留学生や学問僧たちは、数多くの困難をのりこえ、唐の文物を日本に伝えるうえに大きな役割をはたした。
朝鮮半島を統一した新羅とのあいだにも、使節が頻繁に往来した
しかし、対等の立場に立とうとする新羅を日本が従属国扱いしようとしたため、両者の関係はしばしば緊張した。
また、7世紀末に中国北部におこった渤海も、唐や新羅に対抗する必要からたびたび日本に使いをおくってきた。
しかし、8世紀の後半以後、新羅・渤海との交渉はしだいに貿易を中心としたものになり、使節のもたらす大陸のめずらしい品物が貴族の関心のまととなった。
遣唐使は、ふつう4隻の船に分乗したので「よつのふね」ともいわれた。
一行は100人から250人くらいで、多いときは500人に及ぶ大規模なものもあった。
阿倍仲麻呂や藤原清河のように、帰国できず唐朝につかえて一生を終わった人もあった。